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近代 … 科学の進歩と地道な測量の時代




■ 1.三角測量

(1).角度で距離を測る

長い距離を正確に測量するためには三角測量が必要です。三角法の正弦比例の法則を応用したもので、三角形の1辺を基線として距離を測量し、他の2辺の長さは角測量によってもとめる測量法です。角度の実測は光学的測定により、距離の実測よりはるかに短時間でしかも精密な値を得ることができます。三角形をつないでいけば、1辺の距離と各交点の角度を実測するだけで、全ての辺の長さを算出することができるのです。三角測量の基本的な原理は、メルカトルの師である数学者のヘンマ・フリシウスが著わしています。

(2).測量器具

1つの三角形だけならまだしも、いくつもつないでいく場合、基線の長さと角度の測量には高い精度が要求されます。距離は簡単に測るときは車輪を使った走行距離計を用いましたが、正確に測るときは測鎖とよばれる精密な鎖を用いました。角度の測定には水平な目盛り盤に照準器をつけた経緯儀(トランシット)とよばれる道具が用いられるようになりました。“経緯”といっても経度と緯度が測れるわけではなく、水平角と仰角が測れるだけです。

(3).1度の長さ

ルネサンスで古代科学が復活し、大航海時代で大陸の形が明らかにされていった16世紀になっても、意外なことにヨーロッパ文明圏では、エラトステネス以来地球の大きさが測量されたことはありませんでした。コロンブスは1度を83キロメートルと勝手に推定しまう有様だったのです。ヨーロッパで最初に子午線1度の長さを測ったとされているのは、フランス生理学者ジャン・フェルネルです。

1525年馬車の車輪と四分儀を使った初歩的なものですが、それでも誤差は0.1パーセントでした。三角測量による最初の測定は1615年オランダのスネリウスです。ところが角度の測定技術が劣っていたため3パーセントも誤差を出してしまいました。三角測量は誤差が累積されていくため高精度の測定器と細心の注意が必要なのです。本格的な三角測量を実施したのはフランスの天文学者ジャン・ピカールです。1669年、望遠鏡付きの経緯儀や大型望遠鏡付きの緯度測定器を使い、13の三角形をつないで測量した結果、子午線1度を110.46キロメートルと極めて正確に算出することに成功しました。

〜〜〜〜〜 コラム:三角測量 〜〜〜〜〜

▼ 三角測量の方法

(図:未知の2辺の距離を求める)
三角測量の解説図

実測する項目は、基線BCの距離、∠ABC、∠ACBです。実測結果は、基線BC=300メートル、∠ABC=58度、∠ACB=42度でした。辺ABと辺ACは次の式で求められます。

 辺AB=辺BC×sin(∠ACB)÷sin(180−∠ABC−∠ACB)
    =300×sin(42)÷sin(80)
    =300×0.66913÷0.98481
    =300×0.67945
    =203.836メートル

 辺AC=辺BC×sin(∠ABC)÷sin(180−∠ABC−∠ACB)
    =300×sin(58)÷sin(80)
    =300×0.84805÷0.98481
    =300×0.86113
    =258.339メートル

▼ 三角鎖

(図:三角鎖)
三角鎖の解説図

三角形をつないだものを三角鎖といいます。このような三角鎖でも1辺、たとえばACの長さを測鎖などで測れば、あとは各三角形の内角を精密に測定するだけで、全ての辺の長さを求めることができます。そしてA地点の経度と緯度を天体観測によって測定すれば、他の地点の座標も算出することができるのです。

▼ 日本の三角点網

現在の日本では、国土全体が三角鎖の網で覆われていて、座標と標高が精密に測定されています。三角形の頂点である三角点は、山の頂上や平野の中など見通しの効く場所に設置されています。現地に行くと標石が埋められていて、やぐらが組んであるところもあります。三角点には1等から4等まであって、順に編み目が細かくなるように配置されています。1等三角点網の1辺は約45キロ、2等は8キロ、3等は4キロ、4等は2キロです。1等三角点の数は全国に約1000、2等は5000、3等は33000箇所設置されています。



■ 2.地球は楕円か?

(1).地球は楕円か?

ピカールとそれに続くカッシニの測量によって地球の大きさはかなり正確に測量できるようになりました。ところが肝心の地球の形について重大な疑問がだされたのです。1687年アイザック・ニュートンが万有引力の法則を発見すると、地球の形も遠心力の作用で赤道が膨らむ楕円体ではないかと考えられるようになったのです。本当なのか? 本当であるならどの程度なのか? ニュートンの理論だけでは扁平率まで予測することはできません。

(2).測量により証明する

1735年、フランス王立科学学士院は、極地付近と赤道付近の2箇所で、子午線1度の長さを精密測量することにしました。赤道での距離が短ければ楕円であることが証明されることになります。これには科学的な興味だけではなく実質的な要求がありました。地球の形と大きさについて正確に知ることができなければ、地図に記される座標と距離は全て不確かなものとなってしまい、安全な航海もできなければ、国土の面積を算出することもできません。国境線の位置をめぐって紛争が起きることもあり得るのです。

(3).北と南で

北極探検隊長にはピエール・ルイ・モロー・ド・モーペルチュイが選ばれ、スウェーデンのラプランドへ出発しました。山頂に目印を建て、森と沼地の中にいくつもの観測所を設営し、全長100キロメートルを越える三角鎖を設営しました。厳寒の冬期も含め1年をかけて測量した結果、極地での子午線1度の長さを111.094キロメートルと算出しました。もういっぽうの赤道探検隊長にはピエール・ブーゲが選ばれ、スペインの植民地であったペルー(現エクアドル)のキトへ出発しました。ペルー側の理解を得るのに手間取り、アンデス山中での作業は困難を極めました。その上、事故・病気・暴動などの不運が重なって多くの隊員を失い、9年半もの歳月をかけてようやく帰国できたのです。なかにはアマゾン川を下って港にたどり着いたものさえいたのです。それでも観測結果は満足できるもので、109.92キロメートルと算出しました。

(4).わずかに偏平

このようにたいへんな苦労の末、地球が扁平楕円体であることが証明されましたが、扁平といってもごくわずかなものです。現代の測量によれば(測地系WGS-84の場合)、経線に沿った地球の円周は赤道に沿った円周より、134.37キロメートル短いことがわかっています。比率で表わすと、1/298.257になります。


■ 3.地形図を作る

(1).経験的地図から実測地図へ

16世紀になると、大航海時代を経て、世界の大地のおおまかな形は知られるようになってきました。地上についても、経済活動の活発化や絶対王政国家の成立によって、多くの地図が作られるようになりましたが、中世以来の古い地図に描き足すような形で発展してきたため、極めて不正確で地形図として使えるような代物ではありませんでした。これでは、道路や橋や軍事施設の建設も、農地の開発も思うに任せません。近代国家に脱皮するためには、科学的に測量された地形図が必要なのです。

(2).近代国家フランスの成立

このころのフランスは、ルイ王朝のもとで国内を統一し、重商主義政策で産業を発展させ、強大な軍隊を整え、ヨーロッパ随一の強国となりました。政府は科学と文化の振興にも熱心で、人材の育成や政府機関の設立を進めました。こうして文化の面でもヨーロッパの中心として繁栄することになったのです。

(3).フランス全土測量計画

1669年ルイ14世の財政総監コルベールは、イタリア出身の天文学者ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシニ(1625〜1711)に、フランスの地形図作製を依頼しました。彼は、木星の衛星の掩蔽(えんぺい=天体が他の天体の陰に隠れたり現れたりする現象)を観測することにより経度を測定する、ガリレオが考案した技術を実用化していたのです。三角測量はどんなに正確に実施しても、三角形の数が増えていけば誤差が累積されてしまうため、ところどころで天体観測により正確な経緯度を測定して誤差を消していく必要があるのです。ジョヴァンニはこの遠大な事業に取り組むため、王の臣下となり、ジャン・ドミニックと改名しました。ピカールから受け継いだ構想は、まずフランス全土を三角点網で覆いつくし、主要な三角点の経緯度を測定し、地図の外枠を作ります。次に地形や構造物を実測とスケッチにより、枠の中に描いていくのです。

(4).カッシニ一族の偉業

ジャン・ドミニックと息子のジャックは、ピカールの測量を延長して、パリを通ってフランスを南北に縦断する三角鎖を設置して測量しました。この事業だけで1683年から1718年までを要しています。次にジャックと三代目のセザール・フランソワが、東西に横断する三角鎖を測量し、さらにこれを基礎にして、総数800個の三角形でフランス全土を覆ったのです。ようやく1745年外枠としての地図が完成、第一段階を終了しました。セザールと測量隊はただちに地形測量を開始しましたが、1756年になると戦争により財政援助が打ち切られてしまったため、出資者を募って測量会社を設立して事業を継続しました。セザールの死後、四代目のジャック・ドミニックに引き継がれ、1793年に一世紀以上の年月をかけてついに完成したのです。カッシニ家四代の功績をたたえ『カッシニ図』とよばれるこの地図は、182図からなる縮尺1/86400の大縮尺地形図です。これは科学的測量にもとづく世界最初の地形図で、道路や運河、建物からブドウ畑まで、あらゆる事象が網羅されていて、数多くの地図の基礎になったのです。

(画像:カッシニ図からフランス全土



■ 4.時計で経度を測る

(1).座標を知りたい

経度と緯度は地球上の位置を表す座標です。あなたは自分が今いる場所の経度と緯度を計ることができるだろうか? 緯度なら南中した太陽の高度か、北極星の高度を計れば簡単に求めることができます。これはギリシア時代から理解されていたことです。では経度はどうすればよいか。経度を計るということは、自分がいる場所を通る子午線と本初子午線の角度を計ることです。

(2).本初子午線を決める

緯度が天文学的な性質であるのに対して経度は人為的なものです。基準となる本初子午線は人間が決めなければなりません。プトレマイオスは、既知の世界の最西端であったカナリア諸島を0度としました。近代になって各国が地図作りをはじめるようになると、自国の中央天文台などを0度とするようになりました。航海者など複数の国の地図を使用するものにとっては不便なことです。けれどどの国も譲ろうとはせず、ようやく意見が一致したのは、なんと1884年にワシントンで開催された、第1回国際子午線会議においてでした。多くの海図を出版していたイギリス案が認められ、ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線に決められました。

(3).経度を知りたい

経度の問題に人びとは悩み続けました。航行した距離から経度を求める推測航法はほとんど充てになりません。16世紀に世界一周に成功したマゼラン隊はフィリピン群島の経度で35度もの誤差を出していたのです。18世紀になってもまだ解決できず、位置を誤認したことが原因と考えられる海難事故が絶えませんでした。世界の海へ進出し正確な地図の必要性が高まっていたイギリスの議会は、1714年に経度測定法を発見した者に賞金を出すことを決めます。2つの方法が候補にあがっていました。

(4).星で測る

1つは予測可能な天文現象を観測することです。標準時で書かれた予測表と、現象が観測された地方時を比較すればよいのです。現象としては、ガリレオが考案しフランスの地図を作ったカッシニが実用化した、木星の衛星の隠蔽(えんぺい:天体が他の天体の背後に隠れること。この場合は木星と4つの衛星の位置関係)、月と星との位置関係が考えられました。しかし大がかりな観測器具と長い観測期間が必要なため、都市の経度測定には使えても、船上では使えません。

(5).時間で測る

もう1つの方法は、長期間にわたって狂うことのない時計を作ることです。天文測量で経度のわかっている港を出るときに時計を合わせれば、天体観測によって求められる現地時刻との差で経度を算出することができます。航海の間狂わずに時を刻み続ける時計ができれば簡単に短時間で測定できます。しかし単純で精度の低い振子時計しかなかった当時、過酷な船上で耐えられる時計を作ることは不可能と思われていました。

(6).時計技師の挑戦

この難題に挑戦したのが、ヨークシャー生まれの時計技師、ジョン・ハリソン(1693〜1776)でした。ハリソンは、温度に影響されない振子、バッタ式脱進機、これまでの振子に代わる釣合錘、などを次々に発明していきました。1735年に第1号を提出し、よい成績を上げたのですが、これはまだ認められませんでした。第2号の試験は戦争で中止されました。しかしハリソンはさらに工夫と改良を重ねます。1761年になると精密加工技術を結集し宝石軸受まで用いて、現在の懐中時計のような直径わずか12センチの第4号を完成させました。7週間の航海で誤差38秒(クオーツではなくぜんまいです!)、経度にして9分30秒です。経度委員会(議会の要請により設立された、科学者と海軍の高官からなる委員会)の要求した経度誤差30分をはるかに下回る驚異的な精度でした。同じころ天文学者は月の運行を利用した測定法を完成しつつあり、権威を重んじる委員会は、階級の低い彼の業績を認めようとしませんでしたが、国王ジョージ3世の支持もあり、1773年にようやく2万ポンドの賞金を受け取ることができました。ほとんど一生を時計作りに捧げた人物でした。

クロノメーターとよばれる船乗りの時計のルーツはここにあります。ハリソンの時計は、彼が亡くなった年にジェームス・クックの第2回航海に用いられ、正確な海図作製を可能にしました。彼の開発した技術は、懐中時計や腕時計など携帯可能な時計の開発にも大きく貢献しています。

(画像:ハリソンのクロノメーターH5



■ 5.キャプテン・クック

(1).覇権争いは太平洋へ

18世紀、世界の海の主役はイギリスとフランスで争われていました。イギリスは北アメリカ・南アフリカ・インドなどを確保し、さらなる領土を求めて、太平洋と未知なる南方大陸の探検に乗り出そうとしていました。すでにいわゆる“大航海時代”は終わっていましたが、太平洋についてはまだほとんど何もわかっていなかったのです。

(2).イギリス海軍士官ジェームズ・クック

キャプテン・クックとして知られるジェームズ・クック(1728〜1779)は、水夫としてイギリス海軍に入隊し、堅実で優秀な仕事ぶりによって階級の壁を越えて艦長にまで昇進した人物です。測量術と天文学を学ぶと、1763年カナダのニューファウンドランド島の地図作製を任命されました。ここで彼は従来の船乗りとは違う、最新の科学的測量を実行しました。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけでした。一方彼は四分儀と経緯儀と測鎖を使って、三角測量と天体観測をおこないました。船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船も頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量したのです。できあがった地図はイギリス本土の地図にも遜色のないほど精密なものでした。こうした科学的業績が評価され王立協会の会員にも選ばれています。

(3).太平洋探検航海

1768年クックはニューファウンドランドでの功績が認められて、太平洋探検航海の指揮官に任命されました。任務は、太平洋を広く探査して島の位置を確定すること、太平洋側から北西航路(大西洋と太平洋を結ぶ北回り航路)を探すこと、未知の南方大陸を探すこと、の3つでした。エンデバー号による第1回航海では、タヒチの位置を確定し、ニュージーランドが南方大陸でないことを確認した上で測量して地図を作製、さらにオーストラリア東岸も測量しました。1772年レゾリューション号とアドベンチャー号による第2回航海では、南方大陸を確認すべく氷山の浮かぶ南極圏まで達しますが発見することはできず、事実上存在しないと断定しました。またこのときからクロノメーターを使用して、発見した島々の経度を測定しています。1776年レゾリューション号とディスカバリー号による第3回航海では、北米大陸西岸を測量して地図にしましたが、航行可能な範囲には北西航路がないことを確認しました。しかし惜しくも帰途ハワイで原住民に殺されてしまいました。クックは非常に短期間に太平洋を調査し、しかも科学的な測量にもとづく正確な地図を多数作製しました。なお彼が有名に なったのは、その業績だけでなく、出版された航海日誌がベストセラーになり、タヒチのブームをまきおこしたことにもよります。

(画像:クックが描いたニュージーランド地図

(4).宇宙船の名前

話はそれますが、エンデバー号とディスカバリー号の船名はスペースシャトルにも使われました。アトランティス号は伝説の大陸の名前です。さらにコロンビア号はコロンブスから、事故を起こしたチャレンジャー号は19世紀後半のイギリスの海洋調査船の名前から付けられています。地図の歴史にかかわりのある名前ばかりなのです。私としては、これらの名前は単なる軌道往復船であるスペースシャトルよりも、惑星探査機とか将来建造されるであろう外宇宙探査船にこそふさわしい思いますが .... たぶんまた付けられるでしょう。


■ 6.南方大陸を探して

(1).ギリシア人の想像

“コスモス”には“宇宙”のほかに“秩序”の意味があります。古代ギリシア人は、宇宙は基本的で完璧な原理に従っていると信じていました。ゆえに人間の住むこの大地も、完璧な形状である球体であろうと推察したのです。秩序の重要な要素として対称性を重んじた彼らは、大陸と海洋の分布についても対称性を求めました。北半球に温和で広大な大陸が広がっているのだから、南半球にも同じような大陸があるにちがいない。もしかしたらアフリカとアジアはこの大陸によってつながっていて、インド洋は内海かも知れない。“未知の南方大陸(Terra Australis incognia)”はこうして想像されたのです。

(2).古代地図の復活

中世の長い眠りから覚めたヨーロッパ人はギリシア文明の復興を理想とし、イスラム圏に受け継がれていた書物を学び始めました。地図もそのひとつで、想像の産物でしかない南方大陸も事実として受け止められ、新しい地図に描かれてしまいます。地図制作者自身でさえ、事実と想像の区別はできなかったのですから、もはやその存在を疑う者はいません。

(3).冒険者たちのもう一つの夢

15世紀の地図にはインド洋の南方にぼんやりと描かれていた大陸も、大航海時代になると期待と誇張が入り混じり、想像された情報が加えられて、次第に大きく詳細になっていきます。1569年のメルカトルの地図にも大きく描かれ、翌年のオルテリウスの地図では岬や川に名前まで付けられているのです。マゼラン海峡は南米大陸と南方大陸を分ける海峡にちがいない、マレー半島沿いに行けるかも知れない。冒険者達が求めていたのは、黄金と香辛料だけではなかったようです。17世紀になると、植民地から略奪していただけのスペインやポルトガルに代わって、強大な産業に支えられたオランダやイギリスが世界の海を支配しました。オランダの東インド会社は、インドネシアの南方に大地を見つけます。しかし西岸から南岸を回ったアベル・タスマン(1603〜1659)は、太平洋に抜けてしまい、また海岸線があまりに荒涼としていたので、南方大陸ではないと判断しました。彼らはこの大陸の価値を見過ごしてしまったようです。

(4).キャプテン・クックに消された南方大陸

1768年、エンデバー号で最初の太平洋探検航海に出発した、ジェームス・クックに与えられた使命の1つは、南方大陸の発見でした。しかし陸地であろうと考えられていた、南緯40度まで進んでも島影1つありません。南方大陸の一部ではと思われていたニュージーランドも、島であることが確認されました。こうして南方大陸は小さく描き直されていきました。そして1772年の第2回航海で、レゾリューション号は、氷山の浮かぶ南緯71度10分の南極圏まで達しますが、やはり発見することはできませんでした。たとえこれより南に存在するにしてもあまりにも寒冷な土地であろう。希望は一気に絶望へと変わってしまいます。こうしてついに南方大陸は、地図の上から完全に姿を消されてしまったのです。

(5).本当にないの?

行き場を失ったアウストラリスの名は、やがてもう1つの新大陸に与えられることになります。それがオーストラリアです。19世紀になって南極大陸が発見されますが、それは長い間人々が探し続けた南方大陸よりも小さく、クックの想像どおり人が住むことは叶わぬ土地でした。しかし現在の研究では、はるか太古には今よりもずっと暖かい位置にあり、森林も存在していたことが証明されています。もしかすると...

(画像:1587年にメルカトルが描いた世界図



■ 7.メートル法誕生

(1).ばらばらな単位

地球上の地点は経緯度座標によって表現できるようになりましたが、地図を作るための測量でも、また実用においても、より重要なことは距離を表わす単位でした。距離を表わすこと自体は、地球の形や大きさとは関係ないため、古来より、国によって、時代によって、業界によって、それぞれに由来のある単位が使われてきました。

古代ギリシア時代、地球の大きさを測量したエラトステネスが使った長さの単位は、スタディオン(諸説あるが、約0.178mとする解釈が多い)でした。航海者の使う海里(1nautical mile=1852m)は、陸上のマイル(1mile=1609m)とは異なります。アメリカでは未だにヤード・ポンド法が主流で、コンピュータでもインチが用いられています。位取りもさまざまです。10進法はむしろ少数派で、1フィートは12インチ、1ポンドは16オンスといった具合です。

(2).地球の大きさを基準にする

近代ヨーロッパでは、国家の統一が進むとともに言語の統一も図られましたが、度量衡(長さ、体積、重さ)は相変わらず混沌状態のままでした。1792年、革命の最中にあったフランスで、普遍恒久的で科学的な裏付けのある、度量衡の制定が課題になりました。国内でさえばらばらな状態は商工業の発展に妨げとなっていたのです。基準となるのは長さで、その大きさは自然界に根拠をおくべきだと考えられ、地球の極から赤道までの距離の1千万分の1と決められました。すでにカッシニの測量などによりかなり正確に判ってはいましたが、より正確を期するため改めて測量することになりました。革命政府が設立した度量衡委員会は、二人の天文学者、ピエール・メシェンとジャン・パブディスト・ドゥランブルを任命しました。化学者のラボアジェ、物理学者のボルタ、哲学者のコンドルセも支援していました。

(3).子午線の精密測量

子午線の長さは、同一子午線上にある2つの地点の距離と緯度によって求められます。できるだけ長い方がよいので、彼らはフランス北海岸のダンケルクと、地中海に面したスペインのバルセロナを選びました。見晴らしの効く山や建物を頂点とする三角点網を設定し角度を測ります。最後にその中の1辺を実測すれば、他の全ての辺の長さを三角関数により求めることができます。正確さを求めないのであれば、簡単な道具で数カ月もあればできたはずです。しかし彼らは限界に臨みます。大型の測角器を測量台に運び上げて地点間の角度を秒単位まで求め、天文測量もおこなって位置を確定しました。よい観測点がなければやぐらを建設し、山岳地帯でも手抜きはしません。数十回も測り複数の人間が署名するという厳密さでした。

けれども本当の困難は社会状況でした。革命を恐れる周辺国との戦争が起こり、国内でも革命派と反革命派がせめぎあっていました。身分を証明することすら容易ではなく、スパイと疑われ投獄されたり、スペインへ渡ったメシェンは帰国すら許されません。政権が代われば突然中止させられることもありました。それでも彼らはあきらめませんでした。科学者としての使命感、知的好奇心、新しいものを作りだすことへの夢なのか。

(4).メートル法

支援者たちもすでにこの世の人ではなくなった7年後、白金とイリジウムの合金によるメートル原器は完成しました。しかしこの年、ナポレオンが政権を握り、戦争、王政復古、7月革命、と時代は激変します。そして人々の慣習もすぐには変わらなかったのです。メートル法が正式に採用されたのは、1840年のことです。1875年になると、メートル法度量衡は国際条約として締結されます。現在ではより普遍的な定義として、1メートルは“光が真空中で 299,792,458分の1秒間に進む距離”と規定されています。正確な地図作りにも、統一された度量衡は欠くことができません。


■ 8.インドの謎

(1).支配の手段としての測量

18世紀後半から、イギリスは植民地にしていたインドの測量を始めました。初期の頃は、行政上、軍事上の必要性から、道路に沿って距離を測り、目標物を丹念に調べる方法でおこなわれていましたが、19世紀になると、海洋で養われた測地学をさらに発達させようとする科学的な目的も加えられ、精密な三角測量が開始されました。

(2).距離と緯度が合わない

ところが北部の山岳地帯に近付くにつれ、三角測量と天文観測の結果のずれが次第に大きくなってきたのです。ずれかたがランダムではなく、一定の傾向を持っていたので、誤差や間違いではなさそうです。これが当時“インドの謎”と呼ばれ、多くの科学者が解明に取り組んだ課題です。

(3).鉛直線偏差

水平角度の測定にも基線の測定にも問題はありませんでした。残るのは緯度の測定でした。緯度は天体観測によって求められます。そのためには基準線として、おもりを吊した紐が使われました。これを基準として星の角度を測るのです。紐は地球の中心を指すわけですが、地下の密度の差のために、質量の大きい側にわずかに傾くはずです。この理論はすでに知られ、鉛直線偏差とよばれていたたため、彼らはヒマラヤ山脈の巨大な質量を考えて、最大で15秒の補正をしていました。

(4).アイソスタシー

しかし偏差を過大に評価し過ぎていたのです。1855年のイギリスの科学者ジョージ・ビッテル・エアリの説によれば、地殻は海に浮かぶ氷山のように、マントルの上に浮いています。標高が高ければ地下にも大きな質量を持っています。地殻は地球楕円面に対して上下対称のような形をしているのです。したがって標高が高いところの下では、マントルはくぼんだかたちになるのです。地殻の質量は小さく、マントルの質量は大きいわけですが、このような形状の結果、地球の中心から地表までの全体の質量は、どの部分をとっても大きな差はありません。鉛直線の偏差としてはせいぜい5秒程度にしかならないのです。この状態は“均衡状態”を意味するギリシャ語から“アイソスタシー(isostasy)”とよばれることになりました。

(図:アイソスタシー)
アイソスタシーの解説図
地殻は軽い物質、マントルは重い物質でできているが、このように地殻が上下対称の構造をしているため、各部分(A〜H)にかかる重さはほとんど変わらない。

(5).地下探査

地表を精密に測量することによって、地球内部の構造を知る手がかりを得ることができたのです。重力をさらに精密に測定すると、地殻の構成まで推定することができます。また地震波の伝わりかたを調べると、地質構造の変化面の深さがわかります。こうした技術は鉱物資源や油田の探査に利用されています。


■ 9.アフリカ探検

(1).暗黒大陸

アフリカ大陸の輪郭については、ポルトガルがインド航路を開拓したことで、ほぼ正確に把握されるようになりました。ところが内陸についてはほとんど調べられていませんでした。北部はイスラム圏であるため、彼らの地図にはおおまかには描かれていましたが、キリスト教徒は入ることができません。サハラ以南では地図を作るような強大な国家が成立したことはないし、熱帯の気候はヨーロッパ人には耐えられません。豊かな文化が存在しているにもかかわらず、彼らにとっては未知で困難な土地という意味で“暗黒大陸”と呼ばれてしまいました。この結果、ローマ時代以来アラブの商人から伝わった数少ない噂が、誇張されたり誤解されたりして、想像だけで地図に描かれていました。

(2).大河を手がかりにする

アフリカの地図を作る場合、まずナイル川・ニジェール川・コンゴ川などの大河の水源と流路を正しく把握することからはじめなければなりません。ニジェール川が中流域で東流するのを見て、ナイル川あるいはコンゴ川につながっているとする説や、内陸の湖に流れ込むとする説もありました。中でもプトレマイオスが言及したナイル川の水源“月の山脈”は、長い間ヨーロッパの地理関係者の関心を集めた謎でした。17世紀になってようやく、探検隊がニジェール川やガンビア川を遡るようになりましたが、正しい地図を作ることはできませんでした。1788年にはイギリスで『アフリカ内陸部発見協会』なるものが設立され、各地へ探検隊が派遣されました。ニジェール川がベニン湾に注ぐことが最終的に確認されたのは1830年のことです。

(3).リヴィングストンの探検

宣教師にして探検家であるデイヴィッド・リヴィングストン(1813〜1873)が、はじめてアフリカに渡ったのは1841年のことです。南部のカラハリ砂漠やザンベジ川を探検するうちに、東アフリカと中央アフリカの水系を明らかにし、伝道と交易の基礎を築くことを決意しました。1854年にはヨーロッパ人としてはじめてザンベジ川のビクトリア瀑布を発見、59年にはニアサ湖(現マラウイ湖)を発見しました。66年からはナイル川の水源探検をおこない、タンガニーカ湖やルアラバ川を調査している途中、熱病のために消息不明となり、71年新聞記者のH・M・スタンリー(1841〜1904)に静養中のところを発見されました。しかし2年後に赤痢で亡くなっています。天体観測をして経度と緯度を測定するなど優れた測量者でもあり、多くの地図を残しています。

(4).探検から開発へ

ナイル川の水源は、J・H・スピークらによって、ブルンジ南部の高原であることが確認されました。またスタンリーは、1877年タンガニーカ湖を水源の1つとするルアラバ川を下り、コンゴ川を経て大西洋へ到達しました。こうして内陸の様子がしだいに明らかにされていきましたが、南部の河川は急流や滝が多く、輸送路としてはあまり有効ではありませんでした。本格的な開発がはじまったのは鉄道が建設されてからのことです。とうぜん植民地としての開発ですが。



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