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大航海時代 … 探検と発見そして征服の時代




■ 1.インドへの道

(1).イベリアの勃興(ぼっこう)

アラビア系のイスラム教徒であるサラセン人に支配されていたイベリア半島(現在のポルトガルとスペイン)では、13世紀ころから国王を中心とした“レコンキスタ”とよばれる国土回復運動が起こります。ジェノバの影響で海運が盛んになって国力を増したポルトガルでは13世紀後半に、スペインでも15世紀後半に最後の砦であったグラナダを陥落させ、サラセン人を追放し、国家統一を成し遂げました。絶対君主(強大な権力をもつ国王)を中心に国力を高めたい2つの国は、膨大な富をもたらす黄金と香料を求めるために、さらに国王と教会の権威を高める布教活動をするために、アジアとの交易を望んでいました。しかし地中海の制海権は、ベネチアやジェノバなどイタリアの都市国家に握られていました。また1299年に成立したオスマン・トルコは、1453年にはコンスタンチノープル(現イスタンブール)を落としてビザンチン帝国を滅亡させ、東欧を支配してしまいました。アジアと接触するためには新しいルートを開拓する必要に迫られていたのです。

(2).エンリケ航海王の野望

ポルトガルは、航海王(過大評価されているとの説もありますが)ともいわれるエンリケ王子(1394〜1460)の指揮で、1422年以降国家事業としてアフリカ西岸を南下する艦隊を次々と派遣しました。2世紀にわたる大航海時代の幕開けです。プトレマイオスの地図では、アジアとアフリカは南半球でつながりインド洋が内海として描かれていますが、アラビア人にはアフリカ南端が航海できるとする説があり、彼はこれを信じて賭けたのです。アフリカにあるとされたプレスター・ジョンの国へ到達する目的もあったようです。エンリケの没後は、跡継ぎのジョアン2世が事業を引き継ぎました。1473年ゴンサルベスが赤道を越え、1487年バルトロメウ・ディアズ(1450?〜1500)が南端に近い喜望峰を発見、1498年バスコ・ダ・ガマ(1469?〜1524)がついにインド洋に抜けてインドのカリカットに到着、ようやく直通航路が開かれました。ポルトガルは莫大な利益をあげるのですが、これはとても日数がかかり、また危険も多い航路でした。インドに拠点を置いたポルトガルは、香料の独占を狙って、マラッカ(マレー半島)に進出し彼らの王国を滅ぼすと、“香料諸島”ともいわれるインドネシアを手中にしました。さらに北上し1557年にはマカオを占領して明王朝と の通商をはじめ、日本にも渡来しています。

いっぽうアフリカ沿岸では奴隷狩りをおこない本国へ送ることもはじめました。それまで奴隷といえばスラブ地方などヨーロッパからアラブへ送られていたので、初めて関係が逆転したことになります。大航海時代は発見の時代であるとともに、植民地時代の幕開けでもあったのです。

(画像:リスボンにある『発見のモニュメント』先頭がエンリケ王子


(3).外洋船の発達

外洋に乗り出すには意志と勇気だけでなく技術も必要です。地中海で発達したそれまでの船と航海術では、沿岸を離れることができませんでしたが、15世紀になると地中海を出て北ヨーロッパへも交易圏が広がり、新しい技術が発達しつつありました。従来のガレオン船は大型で大量の物資を運ぶことができますが、横帆だけであったため順風以外は大勢の漕ぎ手によりオールで航行していました。これに対して1440年ころにあらわれたカラベル船は、イスラム船の影響を受けた大きな三角帆と複数のマスト、船尾固定式の舵を持つ比較的小型のスマートな船です。風上に向かって斜めに進むことができ、安定性がよく速力も速くて、外洋探検航海に適しています。その後植民地からの物資輸送が増えてくると、前と中央のマストに横帆、後ろに縦帆を付けた大型のナオとよばれるタイプが登場します。またコンパス・機械時計・クロススタッフとよばれる緯度測定器なども使用されるようになりました。こうしてはじめて外洋に出ることができるようになったのです。またこれらの器具を用いることによって、船上から海岸線を測量して、すばやく地図が作られるようになったことも重要です。

(画像:カラベル船



■ 2.コロンブスの誤算

(1).大西洋横断

ジェノバ生まれの有能な航海者、クリストファー・コロンブス(1446?〜1506)は当時の地図を見て、大西洋を西へ進めば短期間でアジアに到達するはずだと考えました。そこでポルトガルとスペインに計画を売り込んだ結果、8年もかかった末に、ポルトガルに遅れを取っていたスペインのイザベラ女王の援助を得て実現することになりました。1492年サンタ・マリア号ほか2隻を率いてパロス港を出発すると、カナリア諸島を経て北東貿易風に乗り、わずか2カ月で小さな島(現バハマ諸島のウォトリング島)に到達しました。彼はそこをインド周辺の島々と信じ、インディアスとよびました。香料や大量の黄金を持ち帰ることはできませんでしたが、西回り航路を発見したことで大歓迎を受け、国王から「インド副王」の称号を与えられました。その後も3度大西洋を渡り、カリブ海周辺にカタイ(中国)とジパングを探し続けました。しかしアジアの王国も黄金も見つからず、植民地経営にも失敗し、第4回航海から帰国した2年後、失意のうちに亡くなりました。

(画像:コロンブスの肖像画

(画像:「サンタマリア号」のレプリカ

(2).インドか新大陸か?

コロンブスは、亡くなるまで自分が到達した場所がアジアの一部だと信じていたようです。カリブの島々は彼が計算した東洋の島々の位置にあったからです。なぜ1万5千キロもの誤算をしてしまったのでしょうか? 当時の世界地図では、東の端はジパング、西の端はさほど広くない大西洋でした。彼は地理学者のトスカネリとも相談し、地図の両端をつないでみて、ヨーロッパから中国までは6千キロに満たないと算出したのです。これならば東回り航路よりも近いはずでした。このような地図ができてしまった原因は2つありました。

(3).旧大陸だけの世界地図

1つは地球の大きさがかなり小さく見積もられていたこと、もう1つは経度を知る術がなかったことです。距離は移動に要した日数から推測するしかありません。旅行者の話は概して大げさになりがちです。海上でも、ロープをつけた丸太を流して、繰り出された長さで測っていたのです。風や海流のために大きな誤差がでる方法です。これを小さく見積もった地図の上に書き込んでいったので、アジアは異常に長く東へ引き延ばされてしまっていたのです。すでにかなりの遠方航海がおこなわれるようになっていたにもかかわらず、このころの地図はプトレマイオスの地図に描き足した程度のものだったのです。もう1つ理由をあげられるかもしれません。それは地図制作者の心理です。空白を隠したいがために、すでにある材料だけで全体を埋めようとして、ずらしたり引き伸ばしたりしてしまったのです。

(4).発見ではない

しかし新大陸に最初に到着したヨーロッパ人はコロンブスではありません。10世紀にバイキングとして知られるノルマン人がグリーンランドを植民し、そこからアメリカ北部のノバスコシア付近に達していたことがわかっています。彼らの船は甲板のない大型の手漕ぎボートで帆走も可能でした。厳しい北の海で鍛えられた彼らにとって、北大西洋を渡ることはそれほど困難なことではなかったのでしょう。しかし気候が寒冷化してグリーンランドに住めなくなると撤退してしまったようです。文献にはっきりとした記録が残されていないうえ、当時のヨーロッパ文明の中心であったスペインやイタリアへは全く情報が届いていませんでしたから、大航海時代の探検家たちはそのことを知りませんでした。しかしそもそも先住民が居るのですから“発見”ではなく“到達”とすべきでしょう。

(5).世界を2分割

ポルトガルとスペインによる領土拡張争いが激化する中、コロンブスの成功を受けたスペインは、1493年、ここで発見した土地を独占すべくローマ教皇にある提案をしました。それは西アフリカ沖にあるベルデ岬諸島の西約550kmを通る子午線(西経31度8分付近)で世界を2つに分け、新たに発見された非キリスト教徒の土地を、境界線の東側はポルトガル、西側はスペインに権利を与えるというものでした。これは教皇子午線とよばれ、いったんは決定されましたが、大西洋の西側で将来発見される土地の権利を持てなくなるポルトガルが抗議して、94年に境界線を1500km西へ移動させた(西経46度30分付近)トルデシーリャス条約が結ばれました。この結果、南米で唯一ブラジルだけがポルトガル領になったのです。またポルトガルがアフリカ周りでアジアへ進出し、スペインが新大陸に集中することにより衝突が避けられました。発見された土地の住人の意見はもちろん、他のヨーロッパ諸国の意見もまったく無視した実に身勝手な条約ですが、当時のポルトガルとスペインの力をよく示しています。

(図:教皇子午線とトルデシーリャス条約)
教皇子午線とトルデシーリャス条約
青線が教皇子午線、赤線がトルデシーリャス条約


■ 3.新大陸と太平洋

(1).新大陸はアメリカと命名された

コロンブス以後、探検家は次々と大西洋を渡りました。1497年にはイギリスの援助を得ていたイタリア人カボットが北米に到着、1500年には漂流の結果ではありますがポルトガルのカブラルがブラジルに漂着し、後に新大陸に唯一ポルトガル領を成立させることになりました。こうしてまず南アメリカが新しい大陸ではないかと考えられるようになりました。そして1497年から1503年にかけて、中米から南米を探検したアメリゴ・ベスプッチ(1451〜1512)が、この土地はアジアではなく新大陸であると明言したのです。これを受けて1507年ドイツのバルトゼーミュラーの世界図では、おぼろげながら新大陸の存在を認め、南アメリカの部分に“AMERICA”と記されています。

(2).植民地主義

ベスプッチ以後、新大陸を訪れた者は探検家というより征服者でした。アステカやインカの文明は滅ぼされ、ヨーロッパよりはるかに広大な新大陸は瞬く間に、スペインの植民地にされてしまいました。奴隷化された原住民は強制労働と殺戮、さらにヨーロッパから持ち込まれた病気のために、著しく人口が減少してしまいました。特にカリブの島々ではほとんど絶滅してしまったために、プランテーション(植民者が経営する商品作物農場)の労働力として、アフリカから黒人奴隷を移送しなければならなくなったのです。新大陸は領土拡張欲を満足させましたが、香料は産せず、金銀を奪い尽くしてしまえばほかにめぼしい産物もありませんでした。また人口も少なかったため、市場としての魅力も乏しかったのです。ただ南米産の作物である、ポテト・トウモロコシ・トマト・チョコレートなどは、ヨーロッパの食糧事情を一変させました。特にポテトは寒冷地でも育つためアルプス以北の人口を急増させ、後に北部ヨーロッパ諸国を発展させる原動力になりました。

征服欲に目覚めたヨーロッパは、もはやとどまることを知りません。大西洋の対岸がアジアでないことがわかると、今度は新大陸を迂回してアジアへ到達するルート探しがはじまりました。

(3).マゼランの世界一周

南のルートを開拓したのはフェルディナンド・マゼラン(1480?〜1521)です。1519年スペイン国王の援助を得て、265名を乗せた5隻の艦隊を率いて出発しました。極寒のパタゴニアで越冬し、迷路のようなマゼラン海峡を抜け、想像を絶するほど広大な太平洋を横断し、ようやくフィリピンに到着するのですが、マゼラン自身は島民との争いで亡くなりました。最後まで残ったエルカノ以下わずか18名の乗組員がスペインにたどり着き、史上初の世界1周を成し遂げたのは、出発してから3年後のことでした。航海日誌が1日ずれていたこともあって、地球が丸いことが完全に証明されたのです。

(図:マゼランの航路)
マゼランの航路地図

(4).激動の世界地図

こうして太平洋の広さが認識されると、地図制作者たちは大混乱に陥ってしまいました。空白がなかったはずの世界図に新大陸と太平洋を割り込ませなければなりません。これまでに知られていた場所の経度は、ほとんどが信用できなくなってしまったのです。1502年イタリアのカンティノが製作させた世界図では、西インド諸島は見られるもののヨーロッパとアジアの距離はコロンブス以前と変わっていません。1506年イタリアのコンタリニの世界図では、カリブの島々と南米大陸の北岸が描かれ、南方に広がるように推測されていますが、北米大陸は存在していません。1515年シェネールの地球儀では、南米ははっきりとした大陸、北米はジパングの近くにある島として描かれています。1542年アグネスの世界図ではマゼランの航路が描かれ、南米とインドの経度はほぼ正しくなっていますが、北米とアジアの関係は不明になっています。1570年オランダのオルテリウスの世界図になると、各大陸はほぼ正しい経度に位置付けられカリフォルニア半島まで描かれているのです。

(画像:コンタリニが1506年に作成した世界図


(5).北回りでアジアへ

北のルートも探検されました。海外進出に大きく遅れをとったイギリスは、スペインなどとの摩擦を避けるには東回りでも西回りでもない新しいルートを開拓するしかありませんでした。北アメリカとアジアは“アニアン海峡”(ベーリング海峡)で隔てられているという説が広まっていたため、ロシアの北岸を進むか、あるいは新大陸の北岸を探して迂回すれば、まだ手を付けられていない中国や日本への最短ルートになる可能性があるのです。1527年貿易商であったロバート・ソーンの提唱する3つの“北方への道”の開拓が開始されました。

(6).氷の壁

まず北東ルート(North East Passage)つまりロシア北岸が、ウィロビー・バロー・バレンツなどによって探検されましたが、北極海の嵐と流氷に阻まれ、多くは悲惨な結果に終わりました。特に越冬に追い込まれた場合、当時の技術で生き延びることはほとんど不可能でした。やむなく白海で上陸して南下するとモスクワへ向かうことができたため、このルートでの貿易がおこなわれるようになりました。ついで北西ルート(North West Passage)つまり北アメリカの北岸、もしくは西へ抜ける海峡探しがはじまりました。1524年イタリアのベラツァノはニューファンドランドまで到達していましたが、ここから先をフロビッシャー・デーヴィス・ハドソンらが探検し、1616年にはウィリアム・バフィンがランカスター海峡まで達しますが、太平洋への海峡を発見することはできませんでした。一連の探検航海は多くの犠牲を伴い、結局アジアへのルート開拓には到りませんでしたが、ロシア北岸と北アメリカ北東部の状態を明らかにし、地図には大きな足跡を残しました。

(7).現在の北極航路

はじめて北東ルートの通過に成功したのは、1878年スウェーデンのノルデンシェルドで、ベガ号によるものです。北西ルートの通過に成功したのは1906年ノルウェーのロアール・アムンゼンで、フラム号によるものです。現在ではロシアの砕氷船が、毎年夏季に北岸の港を結ぶ航路を開いています。ソーンの提唱した第3のルート、北極圏直行ルートは、1958年アメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が氷の下を通ることによってようやく実現させました。いずれも通過できる期間が限られている上、流氷などの危険が伴うため、ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易ルートとしては活用されていません。その代わりに大陸間を結ぶ航空機が極圏を盛んに利用しています。


■ 4.地球儀

(1).地球儀は地球の模型

地球球体説を信じる者であれば、地球儀を作ってみたいと思うのは自然なことでしょう。投影法のことを考慮しなくてもよいし、なによりも手の中で地球を回すのはよい気分ではないか。

(2).ギリシアの地球儀

世界最古の地球儀は、ギリシア時代の紀元前160年ころクラテスによって作られたと伝えられています。けれど当時知られていた地域は、全世界の4分の1にも満たなかったため、残りの地域には3つの大陸を想像で描いてしまいました。その後アルキメデスやヒッパルコスも地球儀を愛用していたとされていますが、現存していません。アルキメデスが作ったものは、ガラス製の天球儀の中に地球儀を組み込んだ精巧なものだったといわれています。

(3).地球儀を生産する町

地球球体説を否定した中世には、もちろん地球儀は作られていませんでしたが、イスラムでは地球儀も天球儀も作られていました。15世紀になってルネサンスがおとづれると、球体説が復活して地球儀も作られるようになりました。ドイツのニュルンベルクは地球儀製作の盛んな町でした。直径10センチに満たない携帯用から、直径が4メートルもあって、中に入ると天球儀になっている巨大なものまで作られていました。いずれも手間のかかるものですからたいへん高価で、実用品ではなく工芸品として扱われていました。購入者は王侯貴族クラスに限られていたため、彼らの気に入るように装飾がほどこされ、ますます高価になっていったのです。

(4).ベハイムの地球儀

現存する最古の地球儀は、1492年にニュルンベルクでマルチン・ベハイム(1459?〜1507)が製作したものです。直径50.7センチの金属製で、羊皮紙でできた12片の舟型世界図が貼られています。6色の絵の具を使って画家に描かせた、たいへん美しく緻密なものです。描かれている世界図は当時としては標準的なもので、コロンブスが使用していた地図と似かよっています。新大陸はまだなく、アジアが東方へ極端に引き伸ばされることによって、太平洋とアメリカ大陸のスペースを埋めています。アフリカの南端は周航可能に描かれています。カタロニア図と同じように、事物にちなんだたくさんのイラストが散りばめられていて、不明な地域には想像上の動物なども描かれていますが、聖書に由来するものはかなり少なくなっています。

(画像:ベハイムの地球儀



■ 5.印刷と出版

(1).地図は銅板彫刻

ポルトラノ海図のころの地図は羊皮紙に手書きされたものでした。12世紀に中国から製紙技術が伝えられても、痛みやすいためにまだ羊皮紙が中心でした。1454年グーテンベルクが印刷術を発明しても、地図は活字のようにはいかないので、しばらくは手書きの時代が続きました。地図はとても貴重なものだったのです。16世紀になると木版や銅版彫刻による印刷がはじまります。銅版にニードルで彫刻し、墨を塗り、プレス機によって型押し印刷するのです。しかし印刷でできるのは黒1色だけです。このあと絵師たちが絵の具を使って彩色するのですから、地図が高価になるのは当然です。印刷技術を導入したといっても大量生産はできなかったのです。

(2).地図は国家機密

大航海時代の先鞭をつけたスペインやポルトガルは、発見した土地を地図に描いていきましたが、彼らの航海は国家事業としておこなわれることが多く、地図が印刷・出版されることはほとんどありませんでした。特にポルトガルでは国家機密扱いになっていたうえ、1755年の地震で多くが失われてしまいました。

(3).オランダの地図工房

16世紀になると、海の主役はスペインから新興国家オランダに移っていました。それとともに地図出版の主役もイタリアからオランダに移っていきました。自由な貿易と手工芸が盛んな土地柄であったことが背景にあったのでしょう。メルカトル、オルテリウス、ブラウなど多くの地図制作者が工房を構えて、絢爛豪華な地図を出版するようになりました。

(4).地図出版業の発展

地図の形態も変化していきました。もはや地中海を中心にした1枚刷りだけでは、要求を満たすことはできません。全世界図、地域図、都市図など多種多様の地図が出版されるようになりました。1570年にはオルテリウス(1527〜1598)が、70図からなる初の世界地図帳『地球の舞台』を出版し、ヨーロッパ中で大好評を得ました。1595年にはメルカトルも『アトラス』を出版しています。世界図の投影法についてもいろいろ考案されるようになりました。コンタリニは極投影による円錐図法、1538年のメルカトルの世界図は復心臓型図法(南北両半球を多円錐図法で投影したものを横に寝かせて並べた図法)、1542年のアグネスは長円形のアピアヌス図法(エイトフ図法に近いが平極)、1700年のドゥリールは両半球型の平射方位図法を用いています。

(5).装飾地図から科学的地図へ

大航海時代の地図制作者は、探検からもたらされる新しい情報を取り入れ、陸地の形を変化させていきました。しかしまだ中世以来の伝統や宗教観から完全に脱却したわけではありませんでした。さすがに“エデンの園”は姿を消していきましたが、装飾のためのイラストは残っていました。また実際に確認された情報と古い時代の地図から引用した情報を区別することなく描いていました。地図制作者が完全に科学的な態度で臨むようになったのは、18世紀になってからのことです。この変化は地図製作の中心地、つまり海上の支配圏を握っていた国の移り変わりから見ることもできます。13世紀、異教徒に囲まれた地中海で交易をしていたイタリアの時代は、地中海の外はイラストで埋められていました。15〜16世紀、黄金や香料の獲得と布教に熱心なスペインとポルトガルの時代には、想像の大陸が描かれていました。17世紀、貿易で富を成したオランダの時代になると、投影法の考慮など科学的な態度が見られるようになりました。17世紀末、国家と教会を分離して科学を振興したフランスとイギリスの時代になると、非科学的な要素は一掃されてしまいました。

(画像:オルテリウスが1570年に作成した世界図



■ 6.メルカトルの発想

(1).国際貿易国家オランダ

16世紀なかば、スペインの支配下にあったオランダは、毛織物産業と北欧貿易で豊かになり、海外へも進出してアジアやブラジルのポルトガル植民地を奪いつつありました。1560年代になるとスペインに対する反乱がはじまり、1581年独立を宣言すると、海外進出はさらにはずみがつきました。1602年になるとインドネシアを支配する東インド会社が設立され、香料貿易を独占しました。オランダはかつてのベネチアに似たところがあり、小さな国土でありながら貿易と工業製品の輸出が盛んで、市民階級が力を持ち、ヨーロッパで最も豊かな国になっていきました。学問や芸術も盛んで、地図製作工房もたくさんあり、実用化されたばかりの銅版彫刻印刷を駆使して、豪華な地図が出版されていました。

(2).地図を見て航海できるか

大洋を渡って対岸の目的地にぴたりとたどり着くことは容易なことではありません。とにかく対岸に到着し、それから海岸線に沿って進むしかありませんでした。地中海の航海では、ポルトラノ海図に引かれた各地からの方位線の中から、目的地までの線を選び、コンパスによって方位を一致させれば、確実に到着することができました。この頃の世界地図では、両極を赤道の半分程度に収束させた擬円筒図法、西半球と東半球に分けた方位図法、北極を頂点にした円錐図法などが使われていました。しかしいずれも使う側の利便性は、ポルトラノ海図ほどには考えられていなかったのです。

(3).地図製作者メルカトル

オランダが海外へ進出しはじめたころ、フランドル地方出身のゲラルドゥス・メルカトル(1512〜1594)は、幾何学・天文学・地理学を学び、地図彫版師になりました。彼は新しい情報を整理し、パレスチナやフランドルの地図を出版し、1541年には地球儀も製作しています。

(4).メルカトル図法

メルカトルは大洋でもポルトラノ海図のように、コンパスだけで航海できないものだろうかと考えました。地図の上に目的地までの直線を引き、その角度に船の進行方向を常に合わせるだけですむように地図を描くことができれば、遭難も減るにちがいない。しかしそれは、円錐図法でも、半球形の図法でも、楕円形の図法でも不可能でした。結局メルカトルが導き出した方法は、円筒図法をベースにして、緯線間隔を緯線の拡大率に合わせて徐々に広げていくことでした。メルカトルの地図に引かれた直線は航程線といわれ、地球儀上では直線でも最短距離(大圏コース)でもありません。1569年この画期的な投影法を用いた世界図は“航海者に最適の新世界地図”と題され、遠洋航海の安全を目的としていました。彼はこの複雑な緯線間隔補正の数学的根拠を明らかにしませんでしたが、1599年にエドワード・ライトが積分法を用いて解決しています。メルカトル図法は、特定の目的のために作られた最初の投影法であるといってもよいでしょう。

(図:メルカトル図法による航海)
メルカトル図法による航海
横浜から方位角87度へ向かって進めばサンフランシスコに到達する

(5).アトラス

1585年から1589年にかけて、メルカトルは地図帳を出版しました。新しい情報をできる限り取り入れ、アジアを従来より小さくし、北米とアジアの間に未確認の海峡を描いています。しかし南方大陸は残されたままです。高緯度での極端な拡大のためか、理解されるまでにしばらく時間がかかりましたが、コンパスによる航海が可能であることがわかると、徐々に航海者の間で支持を得ていきました。近代以降、ほとんどの海図がメルカトル図法で描かれるようになったのです。メルカトルの没した翌年の1595年、ついに107図からなる全世界地図帳が完成しました。表紙にはギリシア神話の天空を支える巨人が描かれ、表題はその名をとって『アトラス』と名付けられました。その後『アトラス』は地図帳の代名詞となりました。

(画像:メルカトルが1569年に作成した地図

〜〜〜〜〜 コラム:地図を意味する英語 〜〜〜〜〜

「地図」を意味する英単語にはいくつかあります。

・map(マップ)
 1枚ものの地図、とくに地域図を意味します。“map out”といえば“計画を立てる”の意味です。

・atlas(アトラス)
 地図帳を意味します。世界地図帳だけでなく国内の地図帳や、道路地図帳にも使われます。

・chart(チャート)
 海図や航空路線図を意味します。図表の意味もあります。

・globe(グローブ)
 地球、あるいは地球儀を意味します。地球儀は厳密には、terrestrial globe といいます。



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