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古代 … 地図が生まれた時代 |
■ 1.地図のはじまり |
人ははるか昔から自分の住む世界を知りたいと思い続けてきました。ほかの動物たちに比べて体力的に劣る人類にとっては、知恵と情報こそが生き延びる手段でした。そしてよりよい生活をするためには、情報を記録し仲間と共有することが必要だったのです。獲物が集まる場所、渇れることのない泉、対立している部族の集落、安全に山を越えるルート、など見聞きして得た貴重な情報を残しておきたい。仲間に伝えておきたい。たとえ文字がなくても絵に表わすことはできます。むしろ言葉より絵のほうが正確に伝えられたのでしょう。
中部太平洋のマーシャル諸島には、貝殻とヤシの繊維を編んで島と航路や海流を表わした海図がありました。外洋を航海できる大型カヌーで島々を行き来していたのでしょう。アラスカに住むイヌイットは、流木を削って海岸線の目印を記録しました。狩りに出て迷わないためです。洞窟の壁面に描かれた絵地図は世界各地で発見されています。現在まで残っているものはわずかですが、人はさまざまな手段で空間を絵に表わしてきました。しかしそれは具象的な(写生のような)絵画ではありません。関心のある事物だけを記号に抽象化して描いているのです。人は地図を発明したのです。
(画像:マーシャル諸島のスティックチャート)
やがて農耕がはじまると、土地を耕したり用水路を作ったりするために大勢の人々の協力が必要になりました。指導者の下で多くの人が働くようになり国家が成立します。すると、人々が争わないように耕地の境界を定めたり、公平に課税するために、土地が測量され地図に記録されるようになりました。これが地籍図のはじまりです。移動のためではなく、領地を示し宣言するための地図です。バビロニア(現在のイラク)では粘土版、エジプトではパピルス(英語の「ペーパー」の語源)という植物の葉を編んだもの、中国では絹に描かれていました。
国が大きくなると国王が住む町の人口が増え都市へと発展します。すると遠くからも人と物が集まるようになり、人々は遠い世界についての知識を持つようになりました。知識は伝えられ記録されて次第に増えていきました。紀元前2000年ころになると、バビロニアや中国で全ての知識を一望に表わそうとして世界図が作られるようになりました。世界といっても地球全体のことではなく、彼らの知り得る全ての土地という意味です。
バビロニアに現存する世界最古の粘土板の世界図は、紀元前700年ころのものと推定されています。円と直線を組み合せた単純なものですが、首都バビロンを中心とする円形の陸地が海に取り囲まれています。小アジア(トルコのアジア側)の山岳地からペルシア湾までが含まれていて、ユーフラテス川も描かれています。海洋の外側に描かれている陸地は、死後の世界をあらわしていて、天空のドームを支えていると想像されていたようです。
(画像:バビロニアの粘土版地図)
古代の人々は世界全体についてはどんなイメージを抱いていたのでしょうか。ほとんどの民族は大地は平らであると考えていました。周囲を山で囲まれていると考える民族もいれば、海で囲まれていると考える民族もいました。大地を支えているのも、巨人であったり、象であったり、大亀であったり。神話や伝説にもとづいて想像されていました。地図の中にも不思議な生き物たちが描かれていました。現実と空想をごちゃまぜにして地図に描く行為は近代にいたるまで続いていくことになります。
■ 2.大地は球である |
四大文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)のころに作られた世界図を見ると、彼らはまだ大地が平面であると考えていたようです。一方、天体の運行を観測して暦を作ることは世界各地でおこなわれていました。繰り返されるリズムの中から自然にはルールがあることが理解されるようになりましたが、それはまだ神の啓示としてでした。ところが紀元前7、8世紀頃になると、地中海交易で興隆しつつあったギリシアでは、知識の交流が盛んになり、異なる考え方を比較して論じる人々が登場します。自然をありのままに受け止めるだけでなく、摂理を論理的に説明しようとしはじめました。自然哲学の発生です。
ギリシアでも初期の世界観はバビロニアの影響を受けたもので、大地は平らな円盤であると考えられていました。地理学者のヘカタイオス(550?B.C.〜475?B.C.)が製作した世界図は“全世界の地形とともに海洋と河川のすべてを掘りこんである銅板”と伝えられ、地中海の海岸線はかなり正確に描かれていたようです。けれども大地の形はやはり平らな円盤で、周囲は“オケアノス”とよばれると架空の海洋に囲まれていると考えていました。
ところが急速に発達した天文学や幾何学(図形や空間の性質を研究する学問)を学んだ科学者が、大地について考察をはじめたとき、世界観は一変するのです。大地が平らではなく球体であると最初に唱えたのは、かの有名な数学者、ピタゴラス(570?B.C.〜497?B.C.)だとされています。太陽や月が球体であることと、ギリシア的な対称性を重んじる価値観から、球こそが完璧な形であると考えたのです。その後、自然科学の祖ともいわれるアリストテレス(384B.C.〜322B.C)が、いくつかの根拠をあげてより論理的に説明しています。南北に長い距離を移動すると星の高さが変化すること、月食のときに月面に映る地球の影は円または円弧であること、沖合いの船はマストだけが見えることなどです。この説からは、月食が太陽と地球と月の位置関係によって発生することが理解されるほど、天文学が発達していたことがうかがえます。
とはいっても、自分の目で見たものしか信じられない人々にとっては、理解し難いことであるはずです。この大地の反対側に、足を“上”に向けて立っている人がいることになるからです。万有引力を認める現代人でさえ、理屈ではわかっていてもイメージすることは簡単ではありません。にもかかわらず、科学的な思考をするようになったギリシアの人々は、地球球体説を自然に受け入れていきました。
■ 3.日時計で地球の大きさを測る |
論理的な思考はしても、実験や観察にあまり関心を持たなかったギリシア人は、地球が丸いことを発見しても、大きさを測ろうとはしませんでした。地球の大きさは、同じ経度上にある2地点間で、距離と同時刻の太陽の高度を測定すれば、あとは彼らが得意としていた幾何学を利用した簡単な計算で求めることができるのです。高度差すなわち緯度の差が、仮に3度であったなら、全円の120分の1だから、距離を120倍すれば地球の円周を求めることができます。
この方法を思いついて、地球の大きさを測定してしまったのは、地中海に面したエジプトの港町、アレクサンドリアの図書館長エラトステネス(276?B.C.〜196?B.C.)です。有名な話なので聞いたことがあるでしょう。このころのアレクサンドリアは、ギリシャが分裂して成立したプトレマイオス朝エジプトの都であり、ヘレニズム文化の中心でした。
“ナイル川上流のシエネでは夏至(北半球で昼が一番長い日、6月22日ごろ)の日に井戸の底まで太陽が差し込む”旅人の話からこのことを知った彼は、あとは同じ日のアレクサンドリアでの太陽高度と、シエネまでの距離を調べるだけでした。太陽高度は日時計として使われているオベリスクと呼ばれる石の塔が作る影を測って、天頂から7度12分と求めました。距離の測定方法は記録に残っていないのですが、人にせよラクダにせよ、歩測であったことは確かでしょう。当時の単位で5000スタディオンと見積もっています。円周を計算してみましょう。
5000スタディオン×(360度÷7度12分)=250000スタディオン
1スタディウム(スタディオンの単数形)は178メートルと推定されているので、キロメートルに換算すると44500キロメートルになります。これは実際の値より1割程大きいだけです。現実にはアレクサンドリアとシエネには経度差もあったし、シエネの井戸は完全に垂直ではなかったようです。このように曖昧なデータしか集まらなかったにもかかわらず、幸運にも誤差が相殺されて、きわめてすぐれた結果を得ることができたのです。
まだ地中海の外の世界については、ほとんどわかっていなかったけれども、地球の大きさを知ることはできたのです。実測困難な対象(地球の円周)を、実測可能な別の対象(2地点の緯度差と距離)に置き換えて、計算によって求める。簡単な幾何学の応用に過ぎないのですが、これこそが測地学の基礎なのです。
(図:太陽の角度から地球の大きさを求める)
C=地球の中心、N=北極、E=赤道、A=アレクサンドリア、S=シエネ LとL’は夏至の日の太陽高度
太陽光線ALとSL’は平行であるから、中心角∠KCL’は∠KALに等しい。
L’はSの天頂、KはAの天頂であるから、∠KALはLの天頂からの離角である。
■ 4.地球に線を引く |
エラトステネスの世界図では、地図上の諸地点の位置関係をみる基準として、いくつかの水平線と垂直線が描かれています。これは主要な地点を通る直線であるため間隔は一定ではなく、あくまでも地図上の目安でした。これを改良して、全世界を合理的に等間隔に区切る経緯線網として確立したのは、アレクサンドリア時代の天文学者であり数学者でもあった、ヒッパルコス(190B.C.〜120B.C.)です。
経線とは北極から南極まで南北に走る線のことです。全ての経線は同じ長さです。緯線とは東西に走る線のことで赤道と平行に引かれ地球を1周しています。赤道から離れるにつれて円周は徐々に短くなります。経線によってできる円の中心は地球の中心と一致します。このような円は“大円”と呼ばれます。これに対し緯線によってできる円の中心は赤道を除いて地球の中心とは一致しません。このような円は“小円”と呼ばれます。ちなみにある地点を通る経線のことを“子午線”ということもあります。干支(えと)を使った方位表現では、“子”は1番目の“ねずみ”なので“北”、“午”は7番目の“うま”なので“南”を意味します。つまり“子午線”とは“南北線”のことです。
地球を経線と緯線による網、経緯線網によって覆うことで、全ての地点は2つの数値で表わすことができるようになります。経緯線は球面を等間隔に区切る線なので、数値は角度で表わすようにします。東西方向の角度を経度、南北方向の角度を緯度といいます。この2つの値を使うことで、地点の位置を座標で示すことが可能になるのです。
こうして経緯線が導入されても、地点の経緯度を測定することはできませんでした。緯度のほうは北極星の高度を測れば求めることができたのですが、実際に記録されたのはほんの数都市にすぎませんでした。ましてや経度のほうは測定する術がなかったのです。地点の経緯度が測定され、正しい位置に記入されるようになったのは、近代になってからのことなのです。
(画像:エラトステネスの世界図)
■ 5.プトレマイオスの『地理学』 |
大地が平らであると考える人々はもちろん、自分が住む町や国家を地図に描くだけであった人々も、投影法を考慮することはありませんでした。縮小するだけでよかったのです。投影法は大地を球体と考え広大な地域を表わそうとするときになって初めて発生する問題なのです。
世界を正しい位置関係で表そうとして投影法の問題を考えたのは、やはりアレクサンドリアで活躍した、プトレマイオス・クラウディオス(2世紀ごろ)です。このころ政治・経済の中心はすでにローマに移っていましたが、アレクサンドリアはまだ文化の中心でした。彼はヘレニズム文化最大の天文学者で、大著『アルマゲスト(最大の書)』を著わしていますが、アリスタルコスの地動説(地球が太陽の周りを回るとする説)を否定して、アリストテレスの天動説(地球は宇宙の中心にあり他の天体が地球を回るとする説)を支持するという過ちを犯したことでも知られています。彼はまた地理学者でもあり、全8巻に及ぶ『ゲオグラフィア(地理学)』を著わしています。地球に関する数理地理学的な問題や地図作製の方法が論じられるとともに、当時知られている限りの地点について経度と緯度を推定して記しています。さらに世界地図と多くの地域図も含まれています。まさに古代地理学の集大成です。2つの著書はともに中世末期から近代科学が確立されるまでの間、ヨーロッパの科学に功罪含めて大きな影響を与えました。
投影法については正しい比例で表すことを重視して、ボンヌ図法に似た一種の正距円錐図法を考案しています。ヒッパルコスが考案した経緯線も導入していました。ちなみに角度の表現に度分秒を使うことを考案したのもプトレマイオスです。しかし測量されたデータが皆無に近く、旅行者の話などから位置を推定したため、地点の位置については大きくずれています。こうしてできあがった世界地図では、西はカナリア諸島から東は中国の西安まで、北はスカンジナビアから南はナイルの源流まで、ほぼ全地球の4分の1を描いていました。経度はカナリア諸島を0度にして、西安付近が実際は130度ほどの差しかないのに、180度にされていました。このことは千年以上後の人々にまで大きな影響を及ぼすことになります。
(画像:プトレマイオスの世界図)
データは不正確であったものの、投影法の考慮、経緯線の導入、座標による位置付け、などがなされた最初の地図であり、近代地図の基礎と言えるでしょう。ヨーロッパ文化圏では近代になるまで、これを越える成果は現われませんでした。方法論としてだけでなく、その後の地図の多くが、大航海時代にいたっても、プトレマイオスの地図に書き加える形で描かれているのです。誤りや想像も含めて。
プトレマイオスはまた“地理学とは、知られている全世界を、そこに介在する現象ともども絵によって表現することである”と書いています。彼がどんな現象を想定していたのか定かではありませんが、これはまさに現在の主題図の概念を表わしています。
■ 6.ローマのロードマップ |
我々が日常最も頻繁に利用する地図は、おそらく道路地図でしょう。経緯度や投影法のことよりも、目的地に迷わず到達できることに主眼をおいて作られた実用的な地図です。現在の道路地図の基礎は、ローマ時代にはすでに作られていました。
ローマ帝国は紀元前2世紀には、ヨーロッパのほぼ全域と北アフリカの地中海岸から西アジアにまでいたる広大な領土を支配するようになりました。ローマ人も地図を作りましたが、ギリシア人のように地点を座標に位置付けたり、投影法を考察したりすることには興味を示しませんでした。そのかわりに土木と軍事に長けていた国民性を思わせる、実用的な地図を発達させました。それが道路を基本としてローマ帝国の領土全体を描いた『ポイティンガー図』です。将軍アグリッパ(63B.C.〜12A.D.)がアウグストゥス帝に命じられて、20年の年月を費やしておこなった測量結果を基にしています。現存するものは、3世紀ころに作られ11〜12世紀頃に写本されたものです。
まずローマを基点とする道路網を描き、これに沿って都市・宿場・目印が簡潔なイラストで描かれています。山脈や森林など自然の様子もイラスト化されて描かれています。さらに宿場間の距離も正確に記されています。もう1つの特徴は地図の形状で、長さが7メートル、幅は30センチという極端に細長い形をしています。これは巻物として携帯できるようにするためです。そのかわり形状や方位は大きく歪められています。道路の接続関係と沿線に何があるかがわかればよいのです。ちょうど現在の鉄道路線図のような感じです。まさに旅行者のための地図です。ローマが建設した道路はよく整備され、道標なども設置されていましたから、地図を持っていれば安全に旅をすることができたのです。
(画像:ポイティンガー図)
■ 7.中国の地図史 |
四大文明の1つであり、広大な領土を持つ中国では、紀元前11世紀、最初の王朝である殷の時代にはすでに天文学が発達していて、地図も作られていただろうと推測されています。紀元前の記録には地図が使われていたことを示す多くの記事がありますが、地図そのものは残されていません。中国で紙が発明されたのは2世紀なので、それ以前は絹に墨で描かれていたものと推測されています。
領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者とされています。これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図ですが、中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていたため、投影法が考案されることはありませんでした。晋の司空(土木省長官)であった裴秀(はいしゅう:224〜271)は、地理学と地図作製の手引書を著わしています。これには地図作製の要点として「分率・準望・道里・高下・方邪・迂直」の重要性が述べられています。
分率 … 縮尺の比率を定めること
準望 … 方位を正すこと
道里 … 距離を正すこと
高下 … 坂道では水平の距離を求めること
方邪 … 交差の角度を正すこと
迂直 … 曲線区間では直線距離と方位を求めること
唐(618〜907)の時代になると、賈耽(かたん:730〜805)が『海内華夷図(かいだいかいず)』を作製しています。9×10メートルの大きさで縮尺は約1/150万、朝鮮半島からベトナム北部までがたいへん緻密に描かれています。経緯度の考え方がなかったため、距離と方位だけで地点の位置を確定しているにもかかわらずかなり正確です。現存はしていませんが、これをもとにして石碑に刻まれた『禹跡図(うせきず)』が残っています。
(画像:禹跡図 石碑の作成は1136年)
元(1260〜1368)の時代には、科学的地図作製法を確立した地図学者の朱思本(1273〜1335)が『輿地図(よちず)』を作製しています。ヨーロッパからアラブにまでおよぶ広大な領土を支配したため、イスラムの地図の影響も受けていて、中近東やヨーロッパまで描かれています。明の時代1555年には、羅洪先(1504〜1564)によって分割され『広輿図』と題された48図からなる地図帳にまとめられています。
このように中国の地理学は独自に発達していたのですが、17世紀になるとイエズス会の宣教師によって、ヨーロッパの近代的な全世界図が伝えられました。大地を平面とみなしていた中国地理学は通用しないことがわかり、マテオ・リッチ(1552〜1610)の協力で、西洋地理学が取り入れられるようになりました。
清の時代になると、測量技術を学んだフランスの宣教師により、1708年から1716年にかけて中国全土で大規模な測量がおこなわれました。1717年に完成し、康煕帝(こうきてい)に献上された地図が『皇輿全覧図』です。これをもとにして出版されたダンヴィルの『新中国アトラス』は、長くヨーロッパにおける中国地図の標準とされていました。